ミカ書7の日記

のんびりした日常、パニック障害、発達障害、キリスト教のことなど

村の小さき教会✨

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村の小さき教会今もそこにありやという歌詞の通りのような教会が在りました。長年礼拝が途絶えていたその教会を復興してくださっていた宣教師家族が帰国なさり、退職主教や退職司祭が当番で司式に来られるようになりました。司祭が兼任時は午後からの礼拝になるとか、近隣や遠方の教会から応援組が来たり、オルガン奏者がいなくなるとヒムプレイヤーを使って歌うことも練習になりました。何人もの司祭さんが一同しての礼拝では小さな教会に活気が漲りました。司祭さん方の賛美は小さな会堂を身震いさせるほどでした。素晴らしい男声アカペラは神の臨在に誘いました。ある時はハイハイ期の娘と退職司祭さまとのアットホームな(怪獣娘を放し飼いしながら💧)礼拝だったり、私と執事とのマンツーマンの礼拝であったりとか。それはそれはなかなか経験できない時を賜りました。ある時は当時の司祭が留守をし、元旦那さんが「明日は恐らく自分たち二人だけだ」ということで、一週間かけて立派な説教を考えました(二人だからということで私達がお世話になっていた複数の先生の説教の継ぎ接ぎでしたが内容的には素晴らしく立派なものでした)。明日の礼拝で彼がどんなことを語るのかまだ内容を知らない私はワクワクしていました。ところがその日に限って同教派の姉妹が村の小さき教会に来会されました。聴衆は私と姉妹。私はまさかソレを今日はやらないだろうと思っていました。彼も継ぎ接ぎと言っていたし、大作ですから、長くなるし‥自分の言葉での説教とか、お勧めとかそんなことならば即興で話せる人ですから‥💧ですが、あり得ないことになんと彼は一字一句紙に書いてある通りに継ぎ接ぎだらけの説教をしました。堂々と憎らしいことに落ち着きを保って立派そうに‥!私はこのフレーズはあの先生、ここは別の先生とか全部がわかっているの、マンツーマンならにこやかに笑顔で聞ける説教でしたが、そんな継ぎ接ぎとか知るはずない姉妹に対して立派すぎる説教が恥ずかしくてなりません。主人が講壇から語るのをじっとり汗をかきつつ、恨めしいやら腹が立つやら、やけに長い説教をこの若造が饒舌に語りつづけるのを早く終わってくれ〜とそれ一心で聞いていました。この時、毎週ご主人の説教を聖職者の妻はどういう謙遜な態度でそれを神の言葉として聞くのか思わされました。私にはそれはとても難しいと感じました。聖職者の方々がマサカ継ぎ接ぎというのはないでしょうが、しかし心中穏やかでならない時もあろうかと思います。‥💧(笑)
どれもこれも、全部が懐かしい思い出です。そんな可愛らしい若い二人さえも用いて、この小さな教会は代々礼拝の火を消すことなく、皆に愛されつつ現在も数名の方々が礼拝を守っておられます。