ミカ書7の日記

のんびりした日常、パニック障害、発達障害、キリスト教のことなど

先生のブログより✨


先生のブログから、



『一八歳から六十歳定年退職まで吹いていた尺八を、定年を機に牧師になるため神学校に入学したために勉学が忙しくて吹く時間が無くなり、牧師になった現在も吹くことが無くなりました。以前も書きましたが、百二十万円もした効果な尺八をとうとう手放してしまい、手元には尺八製管師としては高名な佐藤月州師が製作した尺八、と言っても中古品の安物を置いているだけで、あまり吹くこともありません。一日吹かねば自分が分かり、二日吹かねば家族にも腕が落ちたことに気づかれ、三日吹かねば他人にも気づかれると言うのが尺八と言うものなのです。人間国宝とされた尺八の山口五郎先生のCDを聴きながら、趣味として聴くだけで九十一歳となった自分には吹く気にはなれません。尺八の師匠は青森出身の工藤玄風と言われる方で毎週夕方から京都の今出川河原町通りまで稽古に通いました。師匠から貸していただいた名器の尺八を吹いて、三年の猛稽古で四段、師範の資格に玄州の号までもらいました。
 今から考えるとわたくしにとって、尺八とは何だったのだろうかと思うことがあります。一時はプロになろうかと思ったこともありました。人生のもっとも油ののりきった時期を尺八と書道につぎ込んだということは無駄だったのだろうか。書道は現在でも役に立っていますが、尺八は直接役に立ってはいません。では尺八に自分をつぎ込んだことは無意味だったのだろうか。無駄だったとすれば時間的にも金銭的にも大変損失です。給料が安かった時期にもかかわらず、母は尺八と謡曲に通うことを喜んでくれていました。悪い遊びに行くこともしないで、固い稽古に通うことで安心していたのかもしれません。
 尺八に自分自身を没入したことの利点と言えば、一事が万事と言う言葉があるように、尺八と言う一事を通して、その他の芸術に流れている精神性にも理解できるようになったことです。古今の日本画、洋画、彫刻、文学、邦楽、洋楽、階行草書、篆刻に至るまでの書道、その芸術を楽しめるようになったことです。ことに西洋に流れているキリスト教の精神性、芸術性、日本の根底にある仏教の精神性、芸術性には、わたしの精神がとどまります。わたしの人生は豊かであったと、天に帰る日が近くなった今、しみじみ思っています。』

  二〇一九年  一月 
                      〇〇教会 〇〇牧師       





イメージ 1


出席教会のステンドグラス
田ケ原弘 作